3 東九条に民族民衆文化を!
1986年秋、韓国のマダン劇を自分たちで公演しようと言う呼びかけがありました。これに地域の保育園で働く2、3世の保母や、地域で活動する日本人も参加しました。このようにして東九条を拠点に活動する民族民衆文化牌「ハンマダン」が生まれました。それまで東九条では、子どもチャンゴや、オモニ学校文化祭、児童館や保育園でのとりくみなど、民族文化の芽生えはあっても、大きく成長するまでにはいたりませんでした。ハンマダンの誕生は、東九条の文化運動に転機をもたらせました。東九条マダンは実現しようとしていました。
1988年頃から、バブル経済はますますエスカレートし、東九条は京都駅から近いということもあり、悪質不動産屋や、土地ブローカーが横行し始め、借家暮らしの高齢者が家を追い出され、空き地が目立ち始めました。ハンマダンはこれを題材にオリジナルマダン劇「タンプリ(土地プリ)」として、1990年春に東九条で公演しようとしました。しかし、日々悪質ブローカーに脅かされ続けている人々にとって、私たちのマダン劇は、彼らを一層不安にさせると批判されました。私たちは東九条での公演を諦め、5月に京大西部講堂で公演し、その後、土地立ち退き問題で闘っている同胞の集落地域の宇治ウトロで公演をしました。これらのことを通して、私たちの運動が必ずしも地域と密着していないと考えさせられました。
4 やっと出会えたマダン
1992年3月、私たちはある市民集会で、東九条の青年達と「東九条マダン」の夢を語りあい、4月に主なメンバーが集まり、6月に実行準備会が開かれました。7回の準備会を重ね、私たちは東九条マダンのイメージとして、次のような呼びかけを行いました。
東九条マダン(広場)成功のために
- 韓国・朝鮮人、日本人がともに主体的にまつりに参加し、そのことを通して、それぞれの自己解放と、真の交流の場をつくっていきたいと思います。
- 在日韓国・朝鮮人すべてが、一つの踊りの輪に参加できる世代交流の場とし、そのことを通して、三、四世の子ども達の生きた民族教育の場を創り出したいと考えます。
- 朝鮮民族の願いである民族統一に寄与するために、生活の場である地域から、南・北和解と統一へつながるマダンをつくっていきたいと思います。
- 東九条で生活するさまざまな立場の人々が、ともに生き、人と人が真に触れあえる、そのようなマダン(広場)にしたいと考えます。
このような呼びかけのもとに、1993年1月24日、約50名が集まって第1回東九条マダン実行委員会が結成され、実行委員長に地域の保育園園長の崔忠植氏が、事務局長に朴実が選ばれました。
実行委員会結成からマダン当日まで、さまざまな困難や失敗がありました。最も困難だったことは、会場がなかなか決まらなかったことです。当初予定していた地域の中心にある小学校は、公認の諸団体ではないということで、「校庭開放委員会」が許可を出しませんでした。困り果てていた時、地元中学校が文化祭行事の一環として第2土曜日を開放してくれました。次に、「障害者とともに」と呼びかけながら、実際は障害者が参加できない状態をつくりだし、自己批判していったこと。「民族」と「地域」の両方を大きくうたいながらも、結果として京都全体の「民族まつり」的色彩が強く出て、まだまだ地域一人一人のおっちゃん、おばちゃんに浸透できなかったこと。会場校の都合で、休日に開催できなかったことなど、数多くありました。
私たちは、東九条マダンの宣伝のため、ポスターやチラシの配付だけでなく、「マダンニュース」を3~4回発行し、全戸に配付しました。(第2回~6回は、年3回発行)
10月8日の前日パレードは、直前に台風崩れの大雨も突然あがり、地域をキルノリで練り歩き、9日当日はこれ以上望めないほどの真っ青な青空の下、約2000名の参加者、出演者約100名、スタッフ150名の参加で、成功裡に終えることができました。
第1回のプログラムでは、いくつかの特徴があげられます。まず第一として、和太鼓の演奏をとりいれたことです。なぜマダンに和太鼓が必要なのか、という疑問が各方面から投げかけられました。私たちは、準備会の最初の集まりから、朝鮮人と日本人がお互いの文化をだしあい、それらをぶつけあうことを通して、ともに自己解放を勝ち取ることを目的としてきました。したがって、単なる和太鼓の紹介ではなく、プンムルやサムルの音の交流、ぶつかりあいを求めてきました。このことは、3年後、合同で一つの曲を創作・演奏することに実を結びました。
次に、ウトロ農楽隊の出演です。ウトロとは、京都府宇治市伊勢田町にある朝鮮人集落の地名です。戦時中、日本は軍事飛行場を宇治市の一角に建設しようとしました。朝鮮人労働者も多く動員され、戦後も建設工事の飯場跡に朝鮮人は暮らしてきました。飛行場建設を担った「日本国際航空工業」の後を引き継いだ日産車体㈱は、1987年、突然ウトロの土地を不動産業者に売り渡し、ウトロの朝鮮人は土地明け渡しを宣告され、裁判にかけられ、一審の京都地裁で敗訴となりました(現在大阪高裁で3件敗訴、最高裁へ、1件係争中)。ウトロの友情出演は、東九条とウトロを結ぶ、京都における朝鮮人社会の連帯を意味しています。
次に、車いす体験コーナーなどの、障害者と協力して行うプログラムです。在日朝鮮人には、ともすれば被差別の体験から来る被害者意識はあっても、加害者意識は薄れがちです。地域社会でともに生きる生活者として、障害者の問題を意識的にとりあげようとしました。この試みは、毎回試行錯誤をしながら続けられています。その他、20数店の出店や、パネル展示、シルム(すもう)大会、創作マダン劇、等々盛りだくさんの内容でした。また第1回を記念して、実行委員会でテーマソングがつくられ、披露コンサートも行われました。