東九条マダンのあゆみ

東九条マダンのあゆみ ~やっと出会えてよかったね~

1 第1回マダンが開かれるまで

私たちが東九条で民族文化祭のようなことをやりたいと思ったのは、1983年10月に行われた第一回生野民族文化祭を見に行ったときのことです。その時はすぐにでもできるような勢いで、実際、翌年の1984年と次の1985年には、九条オモニハッキョの文化祭を地域の公園で開催したり、児童館の子ども達によるマダン劇なども行いました。1986年秋には東九条を拠点に活動する民族民衆文化牌「ハンマダン」が結成され、東九条での民族文化祭は実現間近となりました。しかし、ことはそう簡単には行かず、実際「東九条マダン」という名で実現するのには、生野から10年かかりました。

2 東九条地域

東九条は、JR京都駅の南、鴨川より西に位置し、京都で在日朝鮮人がもっとも多く住んでいるところです。ここに朝鮮人が住むようになったのは、1920年代、当時国鉄の東海道線の工事や、東山トンネル工事、鴨川の護岸工事、九条通りの拡幅工事などの大規模な土木工事や、京都の地場産業のひとつである友禅染め関係の染色工場が多くあり、その末端の仕事に従事する者が多かったからです。東九条の朝鮮人人口が著しく増えたのは、解放直後(1945年8月)八条通り一帯(現在のJR新幹線京都駅八条口)に登場した大闇市の頃です。祖国に帰るまで一時的に京都駅に立ち寄った一世も多くいました。また、小さな改札口が一つしかない京都駅南口は、大勢のオモニたちの「闇米」買い出しで、いつも混雑していました。

九条ネギの畑が大きく広がり、南へ行くと中・小の染色工場が点在する地域でした。ここでの同胞の花形産業は、古紙・古着・古鉄などを回収して売りさばく「寄せ屋」で、その親方は多くの子方「バタヤ」を低賃金で雇っていました。当時、東九条の人口は約3万人余、そのうち朝鮮人は約1万人住んでいました。しかし高度経済成長の終わりとともにこれらの産業は廃れ、20代~40代の若い世代の多くは地域を離れ、一世を中心とする高齢者家族が残っていきました。劣悪な居住環境は、一度火が出ると大火災となり、多くの人命が失われました。また、鴨川と高瀬川に挟まれた松ノ木町40番地(現:東松ノ木町)は、国・行政から「不法住宅」と呼ばれ、長い間放置され続けてきました。

東九条は朝鮮人だけの街ではありません。若い頃、職を求めて農村からやってきた人や、被差別地域からさまざまな理由で移り住んできた人々も多くいます。また、公営住宅には障害者も多く住んでいます。いわば地域全体が、行政から見放された被差別地域として存在していました。この東九条も、近年、行政は重い腰をあげ、地域住民の声を聞きながら新しい街づくりにとりかかり、40番地にもやっと「公営住宅」が建つようになりました。「東九条マダン」は、与えられる文化ではなく、自ら発見し創り出す民衆文化を大切なテーマにしています。とりわけ在日韓国・朝鮮人にとって民衆文化との出会いはとても貴重なことだと思います。日本への定住化が進む一方で、韓国・朝鮮人としてありのままに生きることの難しさに悩む「在日」は多いはずです。いま、民衆の民衆の民衆文化を受け継ぎ創造していく経験を通して、韓国・朝鮮人としての自分を真正面に見すえ、表現していくことの大切さがあらためて問われています。

いこか つくろか みんなのマダン